連絡先をブロックした。実家に帰らなくなった。電話が鳴っても出ないと決めた。縁を切ったとまで言えるかどうかは別にして、もう何年も声を聞いていない、という方もいると思います。
自分で決めたことのはずなのに、ふとした拍子に「親を捨てた」という言葉が、自分に向かって返ってくる。離れる前より、離れたあとのほうが苦しいと感じる夜も、あるかもしれません。
この記事は、親のもとへ戻るように勧めるものでも、離れたままでいるように勧めるものでもありません。あなたが選んだことが正しかったのかどうかを、ここで決めることもしません。
なお、離れた相手が世間でいう「毒親」にあたるのかどうか、自分でもはっきり言えない方もいると思います。ここではその言葉を使いますが、親をどう呼ぶかは、あなたが決めていいことです。
毒親から離れたあと、罪悪感が強くなるのはどんなとき?
何も起きていない、静かな日
罪悪感は、まだ近くにいたころより、何も起きていない日にやってくることがあります。
母の日や父の日の売り場。誕生日。年末年始やお盆に「実家に帰る」と話す同僚の声。鳴らないスマートフォンを見て、今ごろどうしているのだろう、と考えてしまう。
離れた理由がはっきりしていても、カレンダーは毎年同じ日を連れてきます。そのたびに気持ちが振り出しに戻るように感じても、おかしなことではないのだと思います。
事情を知らない人の、何気ないひと言
「いつか後悔するよ」「親も年をとったんだから」「育ててもらったんでしょう」。
言った人に悪気はないのかもしれません。けれど、なぜ離れたのかを説明するには、思い出したくないことをもう一度たどることになるかもしれません。だからその場は聞き流して、ひとりになってから、そのひと言が頭の中で何度も繰り返される。
説明しきれないことは、説明しないままでも構いません。周りの人を納得させられるかどうかと、あなたがいま感じていることは、別のことです。
親が老いていく知らせが届いたとき
体調を崩したらしい、入院したらしい——人づてにそんな話が届くと、罪悪感がいちばん大きくなることもあるでしょう。自分がそばにいないせいで、と考えてしまうからかもしれません。
戻るかどうか、どこまで関わるか。そこには、ここでは答えを出しません。ただ、関わり方を考えるときに、家族がすべてを引き受ける形しかないわけではありません。高齢の方の暮らしや介護については、地域包括支援センターという公的な相談窓口があります(厚生労働省は、地域の高齢者の総合相談などを行う機関で、市町村が設置していると説明しています)。
親を捨てたと感じるのは、離れたのが間違いだったから?
罪悪感が続いていると、「やっぱり自分が悪かったのでは」と考えてしまうこともあると思います。けれど、罪悪感があることは、離れた判断の答え合わせにはならないのかもしれません。
親子には「こうするのがふつう」という物語がたくさんあります。その物語から外れた道を選ぶと、物語の側から何度も呼び止められるように感じることがあります。罪悪感の中には、そうした呼び止める声が混ざっていることもあると思います。
だからといって、罪悪感を「持たなくていいもの」と言うつもりもありません。消そうとして消えるものなら、とっくに消えているはずだからです。
ほっとした自分に、もう一度罪悪感をもつ
連絡の来ない日が続いて、静かに眠れるようになった。そのことに、ほっとしている自分がいる。そして、ほっとしたことに対して、また申し訳なさがわいてくる。
罪悪感の上に、もうひとつ罪悪感が重なっているような状態かもしれません。重なっていくと、最初に何がつらかったのかが見えにくくなることもあります。
ほっとしたことを、打ち消さなくても構いません。いま感じていることは、どれも、そのままで大丈夫です。
なくしたのは、親よりも「いつか」のほうかもしれない
離れたあとに残るのは、罪悪感だけではないかもしれません。いつか分かってもらえる日が来る、いつか普通に話せる日が来る——そう思っていた「いつか」を、自分の手で閉じたような感覚。
その寂しさを、罪悪感と見分けがつかないまま抱えていることも、あるのかもしれません。胸にあるものが、ひとつの名前で呼べるとは限りません。
聖書にある「心に責められる」ということば
聖書のなかに、「心に責められる」ことを書いた一節があります。
「なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。」
(出典:ヨハネの第一の手紙 3:20・口語訳)
この一節は、心が自分を責めることを「あってはならない」とは書いていません。「たとい…心に責められるようなことがあっても」と、責められることもありうる書き方をしたうえで、神は「わたしたちの心よりも大いなるかた」だと続けています。
どう読むかは人によって、また教派によっても違います。ここで信仰を求めることもしません。ただ、自分を責める声がいちばん大きく聞こえる夜に、それよりも大きなものがあると書かれた古い手紙が、いまも残っています。
戻るか、離れたままか、決めないまま話してもいい
アドナイ・エレ教会は、オンラインで無料の懺悔室を開いています。どの教派か、信仰があるかないか、過去に何があったかも問いません。戻るのか離れたままでいるのか、決まらないままで申し込んで構いません。
話したことが親や親戚に伝わらないか、心配な方もいると思います。懺悔室のページの案内には、「秘密は守られます」という一文があります。同じ案内の中には「本名はお伝えいただかなくても大丈夫です」ともあります(出典:懺悔室ページ)。
懺悔室ページの下のほうにある「申請はこちらから」を押すと、申請フォームが開きます。*印が付いているのは名前・メールアドレス・電話番号・懺悔内容の4つです。電話番号もこの中に入っていることは、開く前に知っておいてもらえたらと思います。ラインIDとX IDには*印は付いていません。
懺悔室の申し込みから当日までの流れは、教会に行ったことがなくて怖い方へ|無料の懺悔室では何をするのかにまとめてあります。離れる前、まだ関係の中にいて強い怒りが出てしまう夜のことは、「親を殺したい」と思う自分を責めるあなたへにあります。家を離れたあと、どこにも自分の席がないように感じる夜は、「消えたい」けど死にたいわけじゃない夜にも近いかもしれません。どれも、今夜読まなくていいものです。
罪悪感がこの先どうなるかは、ここでは分かりません。戻るかどうかも、今夜決めなくても構いません。決めていないまま、誰かに一度だけ話してみる。それくらいのところから始めても、いいのだと思います。
※「死にたい」「消えてしまいたい」など命に関わるお悩みは、専門の相談窓口へ連絡することも大切です。よりそいホットライン 0120-279-338(24時間・無料)、いのちの電話 0570-783-556 など、公的な相談窓口もあわせてご利用ください。教会はその上で、心の支え・対話の場として並走します。
✚ 話を聞いてほしいだけでも歓迎です
アドナイ・エレ教会はオンラインで無料の懺悔室をお開きしています。
教派・信仰の有無は問いません。教会へ来られない方も、画面越しでお話しできます。
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